昭和42年8月28日 朝の御理解
皆さん、御祈念なさいます時にこういう様な内容のことを祈られるだろうと思うのです。大難を小難、小難を無難にそういう言葉は別として、そういう様な祈りの内容を皆さん持っておられると思うのです。大難を小難に小難を無難に、本当のことを申しますと、私はお道の信心は、その様なお互い、運命を持っておりますけれども、大難が掛かって来ない。来なければならぬ。大難がある様な場合でも、その大難を大難と気付いたらその大難がです、かえってそのおかげを招く様な大みかげが頂けれるのがお道の信心だと、ね。もう大難もなからなければ小難もない。その大難がかえっていわゆる災いを転じて、かえってそれをおかげにしていくという様なおかげが頂ける。そこで私どもはそこんところをですね、みこの目の詰まったというか、いつも神様を身近に頂かせて貰う信心の稽古が必要であることが分かるのでございます。
これは昨夜の御理解から頂きますのにですね、私はあんな御理解初めて頂いたんですけれども、勿論初めてですが、何時もが願いがそうですけれども、ああ成る程と思ったんです。信心しておっても様々な例えば、難儀と云った様な時にはですね、例えばここで信心させて頂くようになると、先ず神様任せとか親先生任せとか申しますでしょう。そういうその親先生任せの信心さして頂いておるんですけれども、うかつにはです、又は無邪気な心でですと申しましょうかね。別に悪気があってのことではないけれども、神様を離して仕舞っている様なことがあるでしょが。いや、神様がほらほらと呼掛けなさっても、かえって面白がって向こうへ走っていく。私夕べもその昨日もその御理解の中でもですね、久留米がすりを着た、それは人間じゃあないんです。人形さんね。権太さん、男の可愛らしい権太さんがこん位ばっかりのですね、三つ位の感じのその権太さんがですね、あのもう大きな大きな母親がですね、象の様な感じでした。大きなその親、母親がですね、その子供の後を追って行きよるのですよ。ところがもう無邪気にその逃げて行きよる。ああそちらへ行ったら危ないから、ああそちらへ行ったら危ないからと追いかけて行きよるけれども、子供はにやにやしながらその面白がって、丁度云うならばその危ない通りにでも走って出ておると云った様な感じ、ね。本当にあの神様任せ、もう親先生任せにでもなると云う信心が出来て來ると云うことは、もう神様としてでもですね、もう目を細めてそれこそ、目の中に入れても痛くないと云う様な情愛と云うのが、それぞれのそういう神様を本当に中心にと云うか、神様をいよいよ親神様と分からせて貰うてそういうつながりが出来てくるんですね。 けれども、私共の信心がその余りにも幼稚でありますから、ああそこんところをそちらへ行っちゃいかんと云うても、かえって外へ出て行くといった様な場合があるんです。そしていわば親の目の前でその怪我をすると云ったようなことがある、ね。ホラ、そっちへ走って行っちゃならん。そこんにきをですね、私共がおかげを頂かにゃならんことはですね、私共はあれはあのう、信心がない。信心を止めたり又は、もう神様も仏様もあるものかと云った様な人達の上にだけ頂かれた御教えだと思ったがそうではない。そういう素晴らしい例えば、親先生任せ神様任せと云った様な信心が分かって來るようになってからもです。うかつに神様を離しておる。さあそちらへ行ったらいかん。そちらへ行ったらいかんと神様が云いよんなさるとに、面白がって表の方へ出て行くと云った様な、私は信心と云った様なことが私共の中には何時もある様に思のです。そこんところをですねえ、言うことを聞かぬ子は親でも仕方があるまいが、ということはそこです。いうことを聞かん子は親でも仕方があるまいが。
目の前で例えば、事故を親の前で事故を起こすと云った様なことがあるのは、親に手を引かれてるのを振り切ってから、その面白がって表に飛び出したりする時にそういう事になってくる。
ですから、如何にその神様に手を取られ通しと云った様な気持ちでの信心が、いわゆる四六時中神様を外してはならないと云うことがまあ夕べの御理解から感じさせて頂くのでございますけれども、今日は例えばですね、大難が掛かってくると云った様な感じとか、そういう予感とか又はそういうお知らせ、前知らせを頂くような場合はその大難がどうぞ小難に、小難が又無難にと云ったような願いもですけれどもです、本当云うならば大難が掛かってくる様なことを自覚したらです、その信心が出来たならば、かえってそのそれをおかげにしていけれる道なんです。
信心と云うのは、悪いことが起こってくるぞというたり知らせなさるなら神様もたいしたことないです。さあこういう悪い事が起こって來るようなことになっておるのだから、氏子しっかりせいよしっかり信心して、これをかえっておかげにしていけよと云う様な、いわゆる願いを込めてのお知らせなのです。ですからそこんところを、しゃんとしていきゃ良い訳なんです、ね。これは私もう子供の頃お説教に聞かせて頂き、そこんところだけ頭に残っておるんですけれども、あるお徳を受けられた先生が御信者さんを連れてから御本部参拝があった。大変お徳を受けておられるもんですから、汽車の中でも御祈念をなさっておられる時に、この汽車はそのう転覆すると云う様なお知らせを頂かれた。さあそこでその、これが普通ならですね、さあ大変、さあ自分方の信者さん達でも途中下車、下車でもさせようと云うところでございますよね。そういうお知らせを頂かれたんですからね。そん時にその先生がですね、自分達だけが助かると云った様なことでは神様にお喜び頂ける筈ないと云うので、一番最前の列車に乗り移られた。蒸気機関車の次に乗り移られてから一生懸命に御祈念をなさったと云うことですね。そしてそれが事なく無事に御本部参拝が出来たと云うお話。そういう時に自分だけが助かりゃ良いと云った様な小さい考えではなく、その汽車全体の者が助からせて貰える為に特別の修行、特別の祈りを捧げられると云うところに私は信心があると思うですね。
四、五日前でしたか、堤清さんがお届けされましたんです。確かに大分駅の品物を配達におい出なければならぬという、まあ親子でおい出られることになったんです。ところがその前、朝にお夢を頂かれたのがですね、途中で事故に合うと云うのではなくて、途中で人を引き殺す様なお知らせを頂かれたんです。
それはそこで、そのことをお取次を願われた。配達はそのひにちを変える訳にはいかない。そこでお取次を願われて、今日一日の上に万事お繰合わせを頂きますようにと云うお願いではなくて、もうそれこそもう、四六時中生神金光大神様を唱え続けて一日を無事に終えられたというんです。帰ってですね、色々考えさせて頂いたら先生丁度普通の二倍の仕事が出来きましたということでした、ね。そういう様な例えば、もう本当に自分方の事故だけのことじゃない。人を引き殺すような運命がそこに待っていましてもです、それをお祈りさせて頂かにゃ出来ん。今日は止めよう、明日にしよう。こんなやはりあの消極的な信心では駄目だと云うことが分かります、ね。そこんところをもう、先生昨日だけはもう片時も神様を外さずに、生神金光大神様を唱え続けての一日でございましたが、おかげを頂きまして途中ではっと云うようなこともございましたけれども、おかげで事無しに無事に帰らせて頂いてから、帰ってからいろいろ今日一日の御用のことを思うたら、いつもの二倍の仕事が出来ておりました、とね。いわゆるそういう大難が起きて來るようなことをかえっておかげにしておられる。信心如何に依ってはそういうおかげが受けられる道。
昨日東京の小西さんから手紙がきておりました。それをお母さんが持ってすぐお届けに出て参りました。丁度私共の主人が普通で云うならば男の大厄という時、ところがですね、今年はもう次々と良くないことが起きて來る。それはもうそれこそ、大難は小難でおかげを頂いていて、こう単車と自転車で、こちらは自転車向こうは単車で衝突されまして、まあ難なしにかすり傷程度でおかげ頂いた。お寿司屋さんですからそのどうかしておられると云うのに、小指を切り落とすばっかりの、だからもうちょっとあの深かったら切り取ってしまわなきゃいかんと医者が云われたそうです。それをこうやってこう継ぎ集めてですね、おかげ頂いたと。まあ次々と何かそういう今年はやはり大厄の年だから、主人の信心がないもんですから、いわゆる須磨子さんという家内が一生懸命お願いをして、あなたもとにかく一ぺん飛行機ででも良いから合楽にお願いにおい出なさいと云うて進めよるけれども、俺は心の中で拝みよるといった様なことでですね、その踏ん切りがつけない。そこでその速達で手紙が親の元、鳥栖ですから鳥栖の親の元に手紙を出してからすぐにお願いに行って下さいと云うお願いがございました。私は丁度楽室におりましたんですよ。そしたら参って来ておる。
それはあの末永さんでしたか、誰かが、こうしてこんなことでお参りして来ておられますと云うて来たとき、私は奉仕着を付けるけ待ちなさいと云って奉仕着を付けてここへ出てきた。奉仕着を付けよった時に私が心耳に頂いたことがですね、あの「かをふくに」と云うことを頂きました。どういう意味か分からんですよ。私は字で頂くのじゃから「かをふくに」と云う言葉ですから、だから「か」と云うのは禍(わざわい)と云う字を「か」と云うし、だからその禍いを転じて福にして行く意味だと思いまして、そのことを御理解に書いてから渡しました。ね、と云う様にですね、例えば禍が起こって來ると云った様な場合でも、現にこれはあのなんですけれども、厄年と云った様な時でもお道の信心ではお役に立たせて頂く年としてですね、神様にお喜び頂ける様なお役に立たせて頂こうと云う信心になったら、即かえっておかげになるんですよ。
これはあの小倉の富永先生ですね、病院の先生です。何かもうお父さんも四十二で亡くなっておられる。自分もいよいよ厄年だからと云うので、お願いに見えた時に、今その御理解を頂かれたのです。はあそうだ、今年こそもう神様にかえって喜んで頂けれる様なお役に立たんならんと云うので、奥様初めそのある神様に喜んで頂ける様な御用が次々となされていったんです。
そしたらもうその年はもう大変な、例えば栄転とかですね、給料が上がるとかですね、もう様々な良いことばかりが続いたのです。もうこれは五、六年前の話です。ね、それが今年は大厄だから、厄年だから厄年だかと云うところです。次々に難儀に合う。しかもお父さんなんかは、四十二で亡くなっておられるというね、そういう大難がかかる様な年柄であってもです、これを福にして行くことが出来ると云うことが分かるでしょうがね。
ところがなかなか今申します様にです、なら堤清さんがそのそういう大難のお知らせを頂かれてから、その日はどうでも大分の方に行かなければならない。しかも親子三人でおい出られる。ね、それに大難がかかる様なことがあっては、人に迷惑をかける様なことがあってはと云うので、一生懸命のお取次を頂いての信心がです、無事に帰らせて頂いただけではなく、そういう昨日は普通の倍の仕事が出来ておったと云うようなおかげになって行く。いわゆるそういう信心はですね、何時も頂きたいんですけど、そこが生身なんです。それこそ、神様から後から追ってきて、それがいっちょ危ない危ないと云うて下さっても面白がって表へ飛び出してから災いに合うと云った様なことがある、ね。だから四、六時中これに頂けておらなければならないのですけれども、やはり豆腐が被った?と云う様なことを申します。「・・? 」
もう、目の前に自動車が来よってもそれを気付かなかったと、ね。ここに例えばもうその先日もお届けがありましたけれども、アイロンを置いとってからです、もうほんな燃え上がる寸前に気が付いて、その時なんかやっぱし忘れとる。被っとる。それが燃え上がったらいよいよ大難です。そこを信心させて頂いたら気付かせて頂いたから、大難を本当に小難にでおかげ頂いたと云った様な例がございます。為に私共はですね、常日頃どういう様な信心をさせて頂いておかなければならないかと、昨日これも昨日でした。最後に繁雄さんと云うのが、これは私の昔からの付き合いでございますが、お母さんお父さんは金光様の御信心を昔からしておりますけど、嫁さんと云うのは、じっちゃま達があげんしてからあの金光様、金光様と言いなさるばってんが、いっちょん有難いことが分からなかった。ところが金光様がここにおい出て頂いてからまあ合楽会にも入らせて貰い段々信心させて頂く様になったら何かとおかげを頂く。この頃からずっとあのバラを商いに回られる。お願いに行った日とお願いに行かなかった日はごろっと商いが違う。有難い神様だと言ってから必ず行く時にここにお礼に出て來るです。先日二十三日の月例祭にお祭り頂いて、有難い有難いで帰りよったらそこの出口の所でこけましてからですね、足をもう大変打ち切っている。そしたら後から見ておった誰か知らんけれども、ああ痛うあんなさったろと言うて頂いてきたばっかりのお酒を出してからお酒を足に拭いて上げた。もう先生もう血がドクドク出ておったのがですね、そのお酒を頂いたとたんに血が止まった。帰ったらもう早う医者に行って早う縫えと皆が言ってくれましたけども、おかげを頂いて痛みません。ですから、あげんいわば新かなお酒だからと言ってお酒を頂いてお酒をつけさせて頂いてから何日か座れませんでしたけれども、今日はこげんしてから自由に座れる様になれましたと昨日お礼に出て参りました。こういう様な場合ですよね、しかもお月例祭にお参りしてしかも有難い御理解を頂いて、有難い有難いと帰りよってその道すがらに転んで、さあ神様に参りよって怪我してから、ああそげなこつなら参るなと人が言うたり自分が思うたりという様なぐらいな信心では、今日私が申します徳はわからないですね。神様の御神意御都合と言うのは、どう何処にあるやら分からんのです。有難くなれたからこそ、お参りをしておったからこそ、その位で済ませて頂いておったのに違いはないのでございますから、まあだ他に理由はございますでしょうけれども、ね。お前の代わりに転んだ、お前の代わりに怪我をした。もうこれはもう、神様もたいしたことはなかばいと云う様な頂き方をする様な信心では、今日私が申します様な幸福にしていく様な信心は生まれて参りません、ね。
私は本当に段々繁雄さんが良い信心を進んで行くならと思うて有難いと思うたことでございますけれども、ね。
信心と云うのはそこなんですね。そして例えば大難が掛かってくる様な場合でも、大難を転じて薬にして行く、薬じゃあない、そのおかげにしていく様な福にして行く様な私は信心を体得していかなければならない。そういう信心を頂いていかなければならないと云う風に思うのです。為にもどうでも私共日頃願わせて頂くこと、念じさせて頂くことがです、ね、どの様な場合でもそれを和らぎ喜ぶ豊かな心で、私共が一切が見れれる感じられる信心、ね。本当に腹立ちでね、それを見たり感じたりする様な時には、もう神様を外しておる時ですからね。もうそげん時が注意しなければいけないんです。 普通で云うならほんに腹立つことじゃろうばってん、ほんにこれがかえって有難く受けられると云うことは、何と有難い時じゃろうか。有難いことじゃろうかという時には、もう神様を頂いておる時だから間違いないんです。 どうぞ。